夜勤明けの朝6時過ぎ、家を目指し6段ギアの自転車を漕ぐ。
早朝の爽やかな風を切るイメージとは異なる嫌な湿気…梅雨間近。
小一時間のサイクリングを終え帰宅するといつも母親はテレビを見ながら朝食をとっている。
暗いニュースを朝から見る気になるのはどうしてだろうか。左か右か、白か黒か…不安定な世界。
バイトの方は一時期の買い溜めブームも落ち着いたのか少しずつ物量は減ってきた。
基本的には1人で黙々と任された複数レーンに張り付き落ちてくる段ボール箱を積み替える作業。
無の境地に近く騒音対策で耳栓をしてるのもあり良くも悪くもやっている事とは全く違う事が頭を巡る。
このブログの内容、動画のネタ、編集のカット、夜勤明けの朝の過ごし方、その他諸々色んなことを考える。
社員さんに名前を覚えられ、同じ派遣会社の人とも少し会話するように。
服装自由なのはありがたいが冷蔵の倉庫内は10℃で夏と言えど防寒重視。
年間を通してユニクロのヒートテック上下と糖分の塊エナジードリンクにお世話になりそうだ。個人的にはモンスターゼロが1番。
電気工事士の勉強の方も順調でテキスト一冊分のカテゴリを読了。
スマホアプリも使いながらやっと過去問全体を解く段階まできたがそれとは別に読んだ実家に眠っていたドラえもんシリーズの解説は凄まじい分かりやすさ。
常にへこたれ逃げようとするるのび太くんにシンパシーを感じてしまう。
家ではのび太くんほどだらだらしてはいないが実家暮らし、実家拠点の気まずさは年々増すばかり…とはいえ船に戻るのが目標な以上、一人暮らし出来る状況ではない。
家を借りるというのは人生のビッグイベントでありそれなりの覚悟がいる気がしてならず、実家の猫がまた可愛い。
筆者が2、3歳の時に両親はマイホームを手に入れ、物心ついて以降実家暮らしでちゃんと引っ越したことはない。放浪できるのはいつでも帰れる場所があるから。
辿り着いた極論
これまでの旅で色々な寝床で一晩を過ごしてきて(意味深)雨風をしのげて土の上でなければ横になれればそこは寝床ということ。
どこであろうと、部屋に何人いようと最低限の次の日の活力を得れさえすればいいのだ。
このマインドをベースに安全、安心、安らぎといった付加価値をお金で買うイメージ、個室のホテルはそれくらい素晴らしいもの。
今回はこれまでの寝床を順に振り返るアコモデーションシリーズ❶
初めてのバックパッカー4日間 @大阪/2014
19歳の夏…まだ海外に行ったことがなくパスポートすら持っていなかった筆者。
会社の夏休みに大阪へ旅行に行くにあたって今後よく利用するであろうバックパッカー、ホステルというワードを知り練習がてら興味本位で泊まってみることに。
これがめちゃめちゃ楽しかった。
OSAKA HANA HOSTELという心斎橋近くのドミトリー(ニ段ベッドなどで複数のゲストが滞在できる相部屋)に泊まり相場は3000円〜。
4か6人部屋だったが特に困った思い出もなく、立地良好で駅や観光地へのアクセスも文句なし。
親切なスタッフは旅行のアドバイス、おすすめを丁寧に教えてくれて感銘を受けた。フロントのロビーにはお酒が飲めるカウンター、畳スペースがありホステル主催のイベントが定期的に行われていた。
ちょっとためらていっところ、スタッフに背中を押されたこ焼きパーティーに飛び入り参戦。結果的に本当にこれが良かったと思う。
英語勉強し始めたばかりでほぼ相槌にも関わらず、宿で知り合った友人と自由に予定を組み観光地を散策。
日本人といえど同じ観光客、初めての街歩きを楽しみ地下鉄で迷いながらグルメを堪能。
メニューや食べ方の説明を英語でチャレンジしたりととても刺激的な旅行になった。仕事を辞めて海外に行く決心をしたのもこの影響が大きい。
思い起こせば、自分の部屋を与え荒れる前、幼少期は妹と二段ベッドに上と下で寝ていた…。
初めての海外バックパッカー1週間 @台北/2015
年明けに辞職、正式には10日付けだったため成人式が無職初日で余計にメモリアル。
初海外先に選んだ台北のホステルの相場は2000円〜。基本はbooking.com で検索しレビューと写真を参考に決める。
赤ラインの淡水信義線、圓山駅の近くにあるバックパッカーの4人部屋(二段ベッド2つ)。
観光客のいないローカル市場、大龍街夜市が宿を出てすぐのところにあるのも良かった。
オプションで朝食がつけれたり最初からついてたりするがそこはせっかくなので散歩ついでにローカルフードを気分で選ぶ方が好き。
大阪でドミトリーを経験したことでだいぶ精神的な余裕が生まれ、旅行のおすすめやローカルスポットなどの質問はスタッフに聞くようにしていたのでガイドブック以外の場所やちょっと遠出の日帰り旅行にも出かけたり。
北投にある銭湯で42℃の熱湯風呂と水風呂のローテでのぼせ風呂場で倒れるハプニング以外は無事に日程を消化。
もしあの場ですぐ目覚めなかったら救急車を呼ばれ病院送り…と思うと血の気が引く恐ろしさ…。
ちなみに2月の台北は雨ばかりで肌寒いのでシーズン的にはあまりおすすめしない。
初めてのリゾートバイト4ヶ月 @富士吉田/2015
ワーホリ前に旅館で住み込みバイト。この期間については以前に書いてので詳しくは触れないがこの時住んでいたアパートは個室で家賃0円。
さらに冬場のストーブ用の灯油も一定量までは無料。
食費のみ5000円かかり従業員食堂で好きなだけご飯が食べれた。日曜の昼はいつもカレー。
プリウスを所持していて起伏が激しい田舎で圧倒的な機動力を誇り純正エアロにホイールを変えたりしていたあの頃に比べ今ではチャリか徒歩移動が基本。
赤い屋根の白い建物が我が家。勾配のクセがすごいが富士山の麓に訪れる春は空気が澄んでていて心地よい。水道水は天然水、凍ることもしばしば。
自然に囲まれて四季を感じれるのは地方の旅館リゾバの魅力で待遇や福利厚生は場所によって異なるが衣食住を安くあげれるのがメリット。
…それも今やコロナのせいで過去形になりつつあ流のが悲しい現実。
どうにかこの期間を持ちこたえ日本の旅館文化を残してほしいと願うばかり。
初めてのホームステイ4週間 @メルボルン/2015
念願のワーキングホリデー ビザを取得し手始めに語学学校に通いながらホームステイの4週間。
もし人生でやり直しができるとしたらこの1ヶ月に戻りたい。郊外のホームステイは無料のエージェントに斡旋され自分で選んだわけではない。YESMANという映画を観てからしばらく断る事をやめていたのかもしれない…単純さ。
ホームステイ代も学費もいくら払ったか思い出せないのはおそらく嫌すぎて自力で当時記憶を消したからかもしれない。
目の青い白人のあばあちゃんシルビアとその妹のまあまあおばあちゃんとで構成された2人家族。
古いMITSUBISHIの車に乗り初日近くのスーパーへ買い出しに行くもどこか冷たい態度。新日家なのかと思いきや車を買ったのは亡くなった彼のハズバンドで本人はそうでもなかった。
寝床の安定感だけは抜群でWi-Fi完備で自分の部屋が用意されフッカフカのベッドで寝ていた記憶がある。
しかしそれ以外はいい思い出がない。
朝はサンドイッチが一つ、昼は提供されず。夜は缶詰の豆のスープにスーパーで売ってるチキンと添えただけのベビーリーフ。塩胡椒はふり放題…これにパンがあったななかったか。20歳の元野球部には到底足りず3日目で量を増やす様求めるも交渉失敗。
キッチンは危ないという観点から使用不可に。
うちではこれしか出さない、腹が減っているならマックにでも言ってこいと言われる有様。
頭にきて口論したいのだがあれっ、怒る英語が出てこない、、、感情的に部屋に戻りエージェントに引越し要求するも通らず。
期待が大きかった分、失望も大きい。
高いお金払うホームステイよりか二段ベッドのドミトリーの方がずっといいのでは?
だんだん考え方が偏ってくる…。
午後の学校終わりに何時に帰るとメールで連絡する電車内でもう嫌気がさしていた。
今では笑い話だがこの数年後に船でオーストラリアから来た日本大好き高齢旅行者数千人を相手に仕事するとは思いもせず…。
フォトギャラリーで話が弾みオーストラリアに一時期住んでたよとなりどうだった?と聞かれたら迷わずメルボルンのホームステイはナイトメア(悪夢)だったよと答えている。
ある日、語学学校のクラスで少し仲良くなった日本人のシェアハウスにお邪魔させてもらう。
なぜ大量のパスタを茹でたのかは思い出せないがその道中は覚えており写真が何よりの証拠。キッチンがあるのに料理ができない腹いせだったのだろうか…南半球の南に位置するメルボルンの6月は冬。
日照時間は少なくいつも重い雲が空を覆う日々に時たま射す光とただただ綺麗なビーチ。
美しい景色に囲まれた日常生活が苦しく感じたあの日々は今の糧になっているのだろうか。
友人もいなければ仕事を探す意欲も失せ、居場所が見つからなかったメルボルンから逃げるように心機一転、プロペラ機で北へ。
稼げる畑仕事があるというネットの情報だけを頼りにオーストラリアを縦断しダーウィンへ。空港で感動した色の濃ゆいサンセット。
一生忘れられない灼熱の大地での1週間 @カナナラ
ダーウィンからバスで12時間、やっとの思いで目的地WA州のカナナラに到着。
カラッカラの赤土に降り注ぐ紫外線が見えそうな太陽光。晴れた天気と相反して晴れない心。
なぜならヨーロピアンいすぎて仕事に空きもない。非常な現実に電波が入らない現地の携帯が追い討ちをかける絶望的な初日。
超田舎にも関わらずバックパッカーは満室、予約してから来て良かった…がどんな部屋に泊まっていたかの記憶がないKimberley Croc Motel。
しかしそこには意気消沈していた筆者を励ましてくれる人たちがいた。
COLESの安い食パンで食いつないだあの日々はきつかったしもうやりたくない…。
精神的にはかなり限界に近かったがメルボルンではなかった人との交流があるドミトリーでの生活はとても充実していた。
ポジティブな考え方ができる人はやはり強い、、今まで会うことがなかったタイプの人たちを見て素直のそう思った。
貯金があればもっと西へ行きたかったがそんな余裕はなく、いくつかの次の候補先と連絡をとっていたがそれも上手くいかず…
映画が現実に?空港3連泊 @ケアンズ
来た道を同じグレーハウンド社のバスで半日かけて戻る。
失意の果てに着いたケアンズでそのままマックのベンチで寝てから予約した最安値の飛行機までの3日間を空港拠点で過ごすことに。
ただ壁にもたれて希望のない明日を待つだけの数時間を睡眠と呼ぶ。
キヨスクのようなコンビニしかないため食料を買いに出たケアンズの街、そこで目にしたヒッピーのようなスタイルで楽しそうにオーストラリアライフを謳歌する日本人グループへの妬みが精神崩壊に拍車をかける。ああはなれないしなりたくもないけどけどどこかでああなりたいという揺れる感情。
街から空港への広い道を一人歩いていると逆ヒッチハイクしてくれる心優しき人も現れたり、彼とは今でもFBで繋がっており今でもちょくちょく連絡をとる仲に。
こういう出会いが結構救いで、記憶もなければ写真もないケアンズのは夢ではない模様。
ターミナルという映画の世界でトム・ハンクスを演じているかのような清掃員とのアイコンタクト、今日もいるんかという顔をされるがそのリアクションは何も間違っていない。
大部屋の10人ドミトリーで2週間 @シドニー
BASE BACKPACKERS SYDNEY の面している通りはKENTストリートといい不思議な縁を感じた。
来てすぐに火災報知器が作動し外へ避難…
そこで隣に立っていた韓国人2人と仲良くなりオペラハウスやボンダイビーチといった観光地へ。
彼らは今どこで何をしているか分からないが元気だといいな。
オーストラリアのドミトリーは条件次第だが安くても3000〜4000円は見ておいた方がいい。だいたいシェアのシェアのキッチンがあり自炊可能。
シドニーでの夜景が見えるようなオシャレレストランでワインでもひっかけたら破産しそうな当時の筆者、手も足も出ず残ったのは写真と劣等感…今は時効。
予約していた部屋は男女兼用の10人部屋(二段ベッドが5台)で間取りも広くここでサッカーや総合格闘技だできるほど。
しかも10/10で満室。アジア人1人、ヨーロピアン9人…みんな持ち物が多く部屋も散らかりマックスで騒々しい。
何かと不安だったがマンチェスター出身の5人組と仲良くなり打ち解ける。
彼らは同い年のグループで当時21歳なのだがどう見ても自分の一つ上には見えない、つくづく欧米人の成長速度の早さに驚かされる。
香川真司がマンチェスターユナイテッドに移籍し活躍していた頃、知ってる日本人=SHINJI KAGAWAだったのかよくチャントを歌っていた。
お互いに何とか職を見つけシドニー解散。最初1週間で予約していたが話が進展せずもう1週間追加した時にはまた心が折れそうに。
やっぱりうまくいかないのか…全てが嫌になり坊主にした。
もはやオーストラリアそのものがトラウマになりかけたが同部屋の彼らに励まされ元気づけられもう少し頑張ろうと思えた。
お互い仕事ないのにご飯やジュースをシェアしてもらった恩は忘れない。
5人組の1人でよく寝技を決めていたジャックは去年、イギリスの総合格闘技のチャンピオンになり格闘家への道を突き進む。
活躍は嬉しく日本で自分も頑張らなくてはと思う。今はみなイギリスに戻り各自思い思いに生活しているよう。
聞いた話によると、イギリスはアメリカのような人種間の差別というよりかは昔からの階級制度の方がが強く残っているとか。国旗で分かるようにオーストラリアもまたイギリスの元植民地である。
初めてのシェアハウス5ヶ月 @ファーム
やっと見つけた仕事はファーム、畑で働いている20数人での共同生活が始まった。
4人部屋(二段ベッド2台)でリビングやキッチンはシェア。週払いの家賃で食事付きで200ドルと決して安くはないが正直どうでも良かった。
仕事があり収入がある、初めて異国の地で安定した衣食住を手に入れた瞬間。
遠回りし勝手に苦労した分、その喜びもひとしお。
日本人と韓国人が9割を占める典型的なコリアンファームで食事のスケジュールもハングル。
この数年後、とあるYoutubeのチャンネルを見て練習したら読めるようになったがその時は全くダメ。
みんなで畑へ仕事に行き帰って筋トレして同じ釜の飯を食べてお酒を飲む…日に日に仲良くなるのは自然な流れか。
日曜日はご飯が提供されないので自炊、これもまた普段しない分気合が入り買い物に行く時からもう楽しく休みを満喫。
ここで美味しい手料理を振るまえる人に憧れ、帰国後キッチンのバイトをするのだ…。
アットホームな雰囲気とドラマチック大自然の職場環境。思い通りにならない現状の先にはもしかしたら今よりいい未来が待っているのかもしれない。
結果的に、オーストラリアではホームステイ、バックパッカー、空港泊、ドミトリー、シェアハウスと寝床を転々とし生き延びた。
辛いことの方が多かったがその都度勇気づけられ励まされるルームメイトに出会えたことは幸せなこと。
現地民からすれば明らかにおかしなアジア人集団だがこんな僻地の畑に不思議な縁で集まったことに理由はない。
一期一会の出会いは刹那的で、ふとかけた、かけられた一声が相手に響いたり、ふとどこかへ出かけたのが忘れられない1日になったりする。
それこそが共同生活、ドミトリーから抜け出せないのかもしれない理由なのか。
畑はそれが顕著で2ndビザ取得のための100日間というゴールがあり、普段の旅行よりも長く深い付き合いになる。
常に流動的に循環し人がいなくなれば、新しい人がどこからかやって来る。
そしていつしか自分のターンは目前に…。
まとめ
2013〜2015年は大阪、台湾、山梨、オーストラリアを旅し、時に働き生活した。
Google mapでどこに泊まっていたか正確な名称をだいたいの土地勘で検索するのだがヒットしたやどの写真が懐かしく同時に泣きそうになる。
いつもドミトリーで出会う人たちからたくさんの刺激を受け自分の住んでいる世界はどんどん広がっていくような感覚に。
一体その世界が何なのかは書いていても分からないものの実家から職場に車で通うだけの毎日では得られない何かだ。
大阪旅行から6年経った今も自分の世界というのは今後も広がり続けているのかもしれないが果たして二段ベッドからの脱却はいつになるのだろうか。
アコモデーション❷に続く