冬のメルボルンでのホームステイと退屈な語学学校生活から逃げ出したい自分は部屋で必死にGoogleで次の行き先を検索していた。
次どこに行けばよいか、、、
当時間違いないのはメルボルンを出るということだけで相談する人は周りにいなかった。せっかくオーストラリアに来たんだから暖かいところにいこうと、そしてなるべく早く仕事を決めようと。そしてある1つの情報から直感的に決めたのがウエストオーストラリア州(WA)にあるカナナラ (kununurra)という街だった。
パース(Perth)が主都市のWAだがその面積はあまりにも巨大だ。理由は至ってシンプルで稼げるファームがあり貯金がたくさんできるというブログを読んだから。
当時の自分にとってこれは希望の光であり、考えるだけでも胸の踊るような話だった。
辛いだけのホームステイ3週間を終了し荷物をまとめケアンズ経由で灼熱のダーウィンへ飛んだ。
夕方に到着したダーウィンの濃厚な赤紫色は衝撃的で空港の電灯がそれを引き立てているようにも思えた。
深夜にダーウィンを出てグレイハウンドバスで12時間。照りつける太陽とカラッカラの空気、土埃、昼間から木下で昼寝をする原住民アボリジニを横目にバッパーへ。
すぐ仕事探しのためファームの仕事を斡旋する職安のようなところに登録しにいくとそこには人人人、しかもほぼヨーロピアン。稼げるのは本当らしく噂が噂を呼びキャパオーバーで数十人仕事待ちの状態に。街には連絡待ちの自分と同じような人たちがわんさかいるという。
そのためかバックパッカーも1週間しか予約できずその間に電話がくればいいが。するとなんと頼みの綱の現地の携帯電話の電波が入らない。
テルストラ…もう一社のオプタスしかここは入りませんよ~と言われもし仮にワンチャン電話がかかってきても出ることすら出来ない。
ここではファームに直接行くことが禁止されていて連絡を待つのが唯一の手段。
colesにSIMカードを買いに行くも初期設定をメルボルンの日本人経営の携帯ショップでやったため設定が複雑で出来ず。どこまで不運なのか…
希望の光は1日にして絶望に変わり1週間何をしたらいいのかただただ時間だけがある。日本からもってきた貯金はもう底をつきそうだった。
バックパッカーでは毎日コールスの食パンにイチゴジャムとピーナッツバターの食事。バッパーにいる時間が増える分、自然と話すように。
キッチンで会ったスウェーデン人はドラゴンフルーツをくれた。ある夜バイクでオーストラリアを二周した日本人にウインナーをもらった。
その人はラッキーな事に仕事があっていろんな話を聞き読み終わったから今後のエネルギーについてという本ももらった。隣の部屋のイタリア人はいつも明るく励ましてくれたしアボリジニにバスケを教えているカナダ人に絵をあげた。
中でも急遽決まったドイツ人とハイキングに行った日は人生でも最高の1日となった。
赤土が年月を経て石になりそれが積み重なり岩になり、、その大きさが丘。スケールの大きさと今までに見たことのない自然美の光景に圧倒された。
バッパーの裏にある Kelly’s knob の頂上から見下ろすカナナラの街とどこまでも続く農地、それらを照らす夕陽のコントラストは言うまでもなく絶景。
シティライフのメルボルンよりオーストラリアを肌で感じれるカナナラの居心地はとても良かったが精神的にはかなり限界まで追い込まれていた。
空が広からくるこの開放感。仕事さえあれば、お金さえあれば…昼過ぎには仕事を終えた泥だらけの屈強なヨーロピアンたちがキャラバンカーで帰ってくる。笑顔でタバコを加えお酒を飲み出すその姿はうらやましく思えた。
バッパー最終日にバケーションで来てるという日本人の女性にホテルジョブを紹介された。
これは斡旋料を支払いさえすれば会社が仕事探しを代行してくれるというものでその人は半年働き貯金で旅をしているという、その名刺とホームページを教えてもらったがもう次のアクションを起こすエネルギーは残っていなかった。
仕事したいのにできない苦しみとそれを解決できない無力さに不運が重なりメンタルは完膚無きまでにへし折られ帰国を決めた。
ただ間違いなく言えるのはここに来て良かったと、例え何も考えてなくても、どうなるか分からなくてもアクションを起こして結果良かったと。
当時20歳のワーホリ挑戦はたった1ヶ月半で幕を閉じ帰国決定。帰りの飛行機は3日後だったがホテル代もなくなり空港泊したのも思い出だ。